『ドライブ・マイ・カー』を観た。読んだ後に。盛大なネタバレを含みます。

興味本位というか、海外のうんちゃら賞を受賞する邦画とはなんぼのもんでしょうと、とりあえず観てみることにした。

映画を観た後に原作を読んでしまうと原作が映画でのイメージで再生されてしまうので、なるべくこういうのは原作から入るようにはしてる。

入るようにはしてるんだけど、当日に本を買いに行って、新書の在庫が無くて(売れてんのかなあ)、仕方なく文庫を買いました。そんでとりあえず1冊読むような時間もなかったので、『女のいない男たち』のいかにも村上春樹な『まえがき』と一番最初の『ドライブ・マイ・カー』だけ読んで映画に挑んだ。

そんで余韻が残っているうちに何か覚書をうろうろ書いておこうと思って、2日経った。
今日は今日とて、『ドライブ・マイ・カー』を読み直してるうちに死ぬほど寝落ちして今午前4時過ぎなわけである。

本当は覚書の前に『ドライブ・マイ・カー』以外の部分も読んでおこうと思っていたのです。

そうすることで村上春樹の言わんとしていること(言わんとしてる訳でもないかもしれないけど、何を思って書いたのか)がもう少し齟齬なく理解できると思っているので。

だけど、流石にもう2日も経つと余韻も抜けてくるし色々忘れちゃいそうなので、とりあえず思い出せる限りは記しておこうと思いました。

めっちゃ眠い。

加えて眼鏡も見つからなくて、自分が書いている文字もちょっとぼやけてる。

そんなこんなでたぶん思考は浅はかで文章はおざなり、短絡的になるかもしれない。

(もとからそうかもしれないけど)

でもまあとりあえず書けることは書けるうちに書いておきます。

映画を観たときにまず思ったのは、原作を読まなくてもよかった、というか、読まずに挑んだほうが良かったかもしれない、ということ。

原作は短編集である。
私が買った文庫で51ページ。

対して映画は3時間弱。(邦画の3時間弱はなかなかな長さだと思っている)

そりゃもう映画化というより、「着想を得た」というほうがいいかもしれない。

そこまで引き伸ばしたにしてはだいぶ原作に忠実だったかもしれない。

でもやっぱり、違う部分をどうしても意識してしまったので、映画の世界にどぷんどぷん浸かることはできなかった。

まず、家福の妻の死因はくも膜下出血ではなく、子宮がんだった。

「子宮」という点において、「女性」という性を認識させられる。

春樹さんは、少なくともこの話の中では「女性」を男とは別の生き物として認識している。

いやほとんどの男性がもしかしたらそうなのかもしれない、女性もそうかもしれない。

男女平等が掲げられて久しいけど、なんというか、そもそも「男」と「女」という、たった2種類でカテゴライズしてしまうことは、危険だし浅はかに感じる。

よく自分は性差別をしないという人達の中に「『女性』だって平均的な男性よりも能力を持っている人がいる」、などというよく分からない発言をする人がいる。

性別がどうであれ、能力に個人差があるのは当然のことなのに、なぜまず人間を男と女の2種類の箱に分け、そうしてからじゃないと比べられないのか。

時代の問題なのか。

そうであることを願っています。

こんなことを言っているとものすごく脱線しにかかっていてまとまらなくなるので話を戻します。

まあとにかく人間の中には、自分と違う性別を、自分とは違う生き物として認識して、性愛の対象、もしくは純粋に観察的興味の対象(自分とは違う存在に好奇心を抱くのは当然のことだと思うので)とするのかもしれない。

知らなかったのだが、子宮がんはほとんど性的接触によるウイルス感染で発症するらしい。

家福の妻は、子どもを3日で失ったあと、共演男性との性的な行為が始まる。

3日、というのも大事なポイントだと思っている。

(映画では見逃すくらいさらっと出たけど、確か3歳だった)

3日、ともなれば、まだ自分が「母親」であることを自覚できないままに子を失ったことになる。

子宮は、子どもを孕む場所である。

子を失ったあと、複数の男性と関係を持ち、そして子宮にがんを患ったとなると、家福の妻は、それを春樹さんが示唆していたかは分からないけど、意識はせずとも体が子の後を追うように求めていたのかもしれない。

みさきは「病みたいなもの」と言っているが、みさきの母親も、高槻も、そういう生き方しかできない、というか、なにか現実的なものから逃れるためにそういう「病」に徹していると捉えるのがいいのかもしれない。

みさきの母親も、原作では車の運転の仕方による事故死である。

どちらも「病」による業のようなもので命を落としている。

原作の話ばっかりになってしまうので映画の話をすると、第一印象はとても純文学的であると思ったことです。

映画を観て「これは純文学だなあ」と思ったのははじめての経験です。

あ、もう一つ大事な違いは、家福は原作では妻の不倫現場を目撃していないこと。

目撃したともしていないとも書いてないけど、原作では感じ取った、のだ。

映画では前半に性描写がしっかりと描かれている。

それは原作のイメージとは違ったけど、まあ終始綺麗だと思わせる映画だった。

邦画というけれど、もはや日本の映画ではないように感じた。

賞は取るべくして取った、という感じ。

あまり日本人受けする感じの作りじゃなかった。

フランスあたりが好みそうな感じ。

あの純文学スタイルで3時間弱の尺は、なかなかに長い。

尋常じゃない集中力を要する。

もう1回観るのはしばらく先かなあと思うけど、3時間も浸ってると、余韻から抜け出すのも難しい。

映画館を出たあとひとりで車で帰ってた時は、なんか感傷があった。

映画の中では劇中劇が出てくる。

その中で高槻は、自分がどうして選ばれたのか分からない、自分だけが浮いている感じがする、みたいなことを家福に話していた。

劇中劇の読み合わせでは、感情を含めず、ただ台詞を言うように家福が指導する。

高槻の台詞には感情がこもる。

そしてそれを体現するように、この映画の中で、岡田将生だけがすごく人間的に喋っていた。

高槻という人間は、そういう生き方をする。

素直で真っ直ぐで、その結果人の死ぬところとなった。

映画の大事なポイントとして、登場人物たちがサバイバーという点である。

家福はみさきに、君はお母さんを殺し、僕は妻を殺した、というような台詞を吐く。

劇中劇『ワーニャ叔父さん』でサバイバーの苦悩が象徴的に語られる。

生きていかなければならない。

大切な人を失っても。

映画で広島が舞台とされたのも、海外に向けて訴える企みがあったのかもしれない。

2人が煙草を掲げるカットは、あざといなあと思いつつ、やっぱりいちばん印象に残ってしまった。

このカットのえげつない部分は、これがこのカットを撮るために作られた設定ではなく、原作に忠実なまま映像化を果たしたというところである。

あの煙草が何かを象徴していたとして、それがなんだかはわからない。

死者を弔う灯火の象徴なのか、生を担ぐ聖火なのか、わからないけど。

とにかくまあ、綺麗だった。

みさきの光を失ったような目つきは素晴らしかったし、音楽も、雪道のサイレントも効果的だった。

原作だけでなく、『ゴドーを待ちながら』も『ワーニャ叔父さん』も読まなくていいかもしれない。

読んでないけど。

この映画はこの映画として純粋に観るのが一番良い見方な気がした。

さてさて、長いこと書いてしまったので、終わりにします。

コメント

  1. ヘモグロ より:

    いつもnoteでお世話になってるヘモです。
    まゆこさんのブログを読んで、ドライブマイカーの原作は村上春樹だってことを知りました。
    そんな感じなのか。いろいろ察してしまう。

    関係ないけど自分のサイトってさ、コメント、全然来ないよね。
    俺のとこも全然来なくて(来るのは良く分からない言語のスパムばっか)、なので、せっかくなので訪問した証として残しておこうと思い至り、コメントを書いてます。

    • momorana111 より:

      ヘモさん!(と呼んでいいのか…笑)
      自分のサイト見なさすぎてコメント下さったことに今気づきました!

      ほんとうに、ただただ独り言呟くのみです…
      拍手機能なるものを付けようか一時期悩んで、めんどくさくてやめました笑

      私もヘモさんのブログちらっと覗くことがあるので、気まぐれに足跡残しにいきますねᕕ( ᐛ )ᕗ

Translate »
タイトルとURLをコピーしました