よわさとつよさ。

むんむん。

最近よく寝ちゃう。すごい寝ちゃう。

いいことだね。

一昨日、部分部分だけどベストアーティストを観たよ。

桑田さんかっこよかったなぁ

歳を取るほど「時代に乗らなきゃ」とか、流行り廃りを左右する若者の潮流に乗っていかなきゃみたいな、エンタメの世界では特にそういう精神性を感じたりするけど、そういうのじゃなくて、素直に新しいものの中に入っていくことを楽しみ続けているような、でも実力の芯は太いから地に足を付けながら枝葉を自由に伸ばしていくような、面白さを感じた。

歳を取って曲者なのは、新しいものに出会って今までの価値観を崩されちゃうと、生きてきたその分だけそうやって生きてきたことの意味を奪われてしまうから、どんどん自分のフィールドに収まることが増えていく。

価値観とは言い訳みたいなものなのかな。

まだ私は保守的な考え方ができない未熟者なので、年が離れていても、新しいことに向かっていったりとか、学ぶことが好きだったり、未知のものとか自分の価値観に反することを簡単に否定しない人は、べき論者たちと比べて話していてすごく心地が良い。

そういえばだけど、平成時代のポップスにありがちな元気!明るい!希望!明日!前を向いて!みたいな音楽に比べて今は諦念というか、きょむきょむしている、ちょっと被害妄想チックな音楽が(主観では)主流な気がするんだが、その時代と今の違いはなんだろう、と考えたりしている。

バブルの頃と今だったら断然違うかもしらんけど、バブル崩壊してからコロナさんが来るまで、何か明るくポジティブから諦念に変わっていくような時代背景でもあったんだっけか。何もないから変わってしまったのか?

会社員の頃(と言っても去年から今年までの間だけど)、「今は色んなものがありすぎて迷っちゃうよね〜」みたいなことを何度か言われた。

それは私があっちこっち手を出してるからそんなことを慰めのように言ってくれているようなものなのだが、私はあんまり自覚的に迷ってると思ったことはなくて、未来への展望を持たない人間だから今やりたいことをそのままやっているだけだし、今までやってきたことは全て今の自分を形成しているものだから何一つやらなきゃよかったと思ったものもないし、でもそういうことを言われると、もしかしてそういう時代背景に大いに影響を受けているのかもしれない、とも思う。

私は私の生きている時代でしか生きられないから、他の時代ではどう生きてたのかを検証することはできないけど。

決まってる方がもしかして人生の満足度は高かったのかな、と最近考えてみたりしていた。

今までは全くそんなことは思わなかったけど。
そんな不自由な生き方無理無理、と思ってたけど。

生まれた時点でおうちを継ぐことが決まっていて。
適齢期になったらその辺でお見合いして結婚して。

確かにもうそれが決まっちゃってるのなら、それ以外のことは考えなくて良いし、外が決めた生き方だから否定されることも、否定されたとしても自分が決めたものじゃないから痛くも痒くもないし、こんなつろつろ自分語りをするほど自分の人生というか生き方に執着することもなかったのかもしれない。

まあもう見えちゃったものは見なかったことにはできないし。ね。

思い出したので別の話になるけど、「弱さを受け入れる社会」になってきたはいいけど…
という話をしたいです。

最近(というほどでもないけど)インスタとかLINEに出てくる「職場で出会ったヤバい奴」とか「元彼・バイト先の先輩後輩・ママ友が実はとんでもなかった話」みたいな実話漫画が苦手だす。漫画に限らずだけど。

嫌なら見るなという話だし追って見ているわけでもないのだが、個々のお話が嫌いというわけではなくて、こういう、実在の人物に対して、たとえその人に見えていなかったとしても、自分の主観的で一方的な見方から公に晒して共感を得て、ともすれば金銭を頂くような、そういう行為が「当たり前のもの」として受け入れられてしまっている現状を、素直に受け取ることができない。

そういう話題が受けてしまうから盛り上がってしまうんだろうけど、せっかく漫画をかけるほどの羨ましい画力と精神力があるにもかかわらず、そういうことの表現に使ってしまうのは、そういう実力を持たない人間から見るともったいないと思うのだよ。

そんで、弱さをね、受け入れる社会には確かになっていると思う。

それ自体はいい事だと思う。

人間は弱いからね。

でも、自分が弱いからといって、それは他者を傷つけていいことの理由には、絶対にならない。

自分の弱さを他者に受け入れてもらいたいのなら、他者の弱さを受け入れる強さが必要だし、

他者の弱さを受け入れる強さを持てないのなら、自分の弱さを受け入れてもらえない覚悟をしないといけない。

人間とは弱い生き物だから、弱さを受け入れる社会は必要だけど、自分の弱さと自分と同じ弱さを持つ者だけが認められる社会はどこにも存在しないし、成立しない。

弱さが社会的に認められれば認められるほど、他者を受け入れる強さもその分必要になってくるのだ。
それがより生きやすい社会かどうかは、よく分からない。

強い人間は存在しない。
というか、「人間」と言っちゃった時点でそれはもう弱さという意味を包含しちゃってるから、ある意味矛盾である。

弱さの場所がちがうだけ。

自分が痛みを感じない場所に人は鈍感になるけど、無意識のうちに自分が加害者の側に立ってる場面をひとつひとつ自覚していかないと、弱さを受け入れる社会はやってきてはくれないからね。

そいじゃっさ。

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