努力は好奇心に敵わず、好奇心は欲求不満に敵わない。

まあ別に勝ち負けの話でもないと思うけど、なんでこういう表現になってしまうのかね。

こんな時間なのでおふとんにAirさんを持ち込んでかたかた書いている。

毎回文章が長いので、適度な行間を空けて書いているんだけど、公開するとぎゅっとなっちゃってすごい読みにくくなっていた。

まあ多分どっかに設定するところがあるんだろうけど、めんどくさいのでそのままです。
なので読むときは、ああこの辺にこのくらいの間を持って読めばいいんだなというのを感じ取りながら読んでいただけるとさいわいです。

書き手側にできないことは読み手側に回すスタイルです。よろしくお願いします。

前回のを書いてから、何回も書こうというタイミングはあったのだが、なんだかんだでモチベーションが100%まで上がらず、正直言うと今もそんなにな感じなんだが、これ以上引き伸ばすと色々忘れちゃいそうなのでとりあえず駄文駄文した駄文メモを残しておきます。

「好きでやってる人には敵わんね〜」みたいな̶浅̶い̶誰もが感じていることはよく言われてるわけなんだが、好奇心ってそんなに強いか?って思う。

そんなこと言ったら好きなことなんてこの世の中にいっぱいあって1つや2つに留められるものじゃないし、たった一つの心配ごととか、日々の義務的な雑務に追われていたら自分の好奇心なんて簡単にほっぽっておけるものになるからである。

「好きでやってる人には敵わんね〜」という言葉は、自分がその分野において敵わない相手に対するちょっとした言い訳とか諦めとか、白旗のようなものを感じる。

まあまあそんなことはどうでもよくて。

好奇心というのは言うても大した力にはならないというのが正直なところである。

話は変わるが「努力できない人」というのは強い人だと思っている。

大抵の人は努力することをすばらしいことだと感じて、自分も努力しようと思ったりして、でもなかなかつづかんなあということもあったりして、努力できる人を尊敬したりする。

でも、努力できない、というのは、努力する必要のないところに自分がいる、ということでもある。

タイトルに書いたが、そりゃ好きでやってる人は強い。

運動が嫌いだけど健康のために走らなきゃいけないから走っている人より、走るのが好きで走っている人の方がそりゃ続くし成長もするもんでしょう。

だけど「好き」より強いものがある。

それが欲求不満である。

欲求不満は、そのままそこに留まっているのが苦痛になる状況である。そこにいるのが耐えられないという感情である。

走ることが好きで走っている人は走るための強いエネルギーを持っているけれど、もしサバンナでライオンに追いかけられている人がいたら、自発的に走るよりもずっと真剣に走り続けるはずである。

走るのをやめたら食べられちゃうからね。

だから、自分が努力できないことを嘆く人はたくさんいるけれど、それはライオンに追いかけられるような心配のない、安心安全なところにいるからであって、そういう安心安全なところにいられるような自信というか自己承認とか他者承認のようなものを身につけられているということである。

努力が続かない、それこそが「現状が幸せなものである」ということの証明なので、今の自分を大事にすればいいと思う。

なんで生きているだけでこんなにも欲求不満を抱えるのだろうか?

まさか自分も何も持っていないわけじゃないだろうが、なんでこんなに色々と足りないと思うものが多いんだろう。

芥川龍之介は人生を、いきなりオリムピックで競争させられるようなもの的なことを書いていたけど、別に誰とも戦っているわけでもないし、競争したいとも思っていないのに、勝手に他者や自分自身によって比べられてしまう。

それもあっちの競技と思ったらこっちの競技にも参加させられて、できないことばかりが増えていく。

こんな歳になったけど、まだ社会に還元できるような何かを1つも身につけていない。
いや別に身につけていないわけではないけど、自分が自分を個体として保つのに必要な時間があって、それがまだまだ全然足りてない。

周りが社会に貢献し尽くして身を引く頃まで、もっともっと学び続けていないと足りていないような気がする。

どこまでいけば「十分」と言えるくらいになるんだろう。

日々を穏やかに過ごすことで安寧を保てるような生活が訪れてくれるのかな。

今はそれができない。
何かをしていないと永遠に落ち着かない。

一歩も前に進めていないときでも、とりあえず自分を誤魔化すように進んでいるふりをしていないと平穏な心持ちになれない。

それが原動力になるのは良いことなのかもしれないけど、原動力が好奇心だったって欲求不満だったって疲れるものは疲れるし、苦しいものは苦しい。

ライオンに追いかけられたとき、好奇心では出せないような速さが出せるかもしれないけれど、その分疲弊するのはこれまた至極当然なのである。

どうすればこのフラストレーションを解消できるのかね。
分かっているのかもしれない。

分かってはいるかもしれないけれど、受け入れてはいけない気もする。

なんか、ジグソーパズルをやったとして、それが1ピース足りなくて、そのピースがもう存在しないことは分かっているんだけど、でもそれを探すことをやめたら生きている意味を失ってしまうから、別の箱を開けて、その中に見つからないことはもう分かってるんだけど、気づかないふりをして、色んな別の箱を開けて、探して、時々虚しくなるけどそれをやめちゃいけないような気がして、それを続けていることで何かとりあえず希望を見ようとしているような、

そんな感じ。

たぶん。

眠いので寝ます。
おやすみなさい。

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