『ベイビー・ブローカー』覚書※大いなるネタバレには大いなる責任が伴う

Airさん同伴し忘れた。切ない。

『ベイビー・ブローカー』を観てきたので覚書。

それにしてもドライブ・マイ・カーといい、ロードムービーの名作が続きますな。
(ドライブ・マイ・カーをロードムービーというかはちょっとあれだけど)

コロナだからロードムービーのほうが撮りやすいんかなと邪推してしまった。たまたまなのか流行りなのか、私が意識しはじめてしまっただけなのかしらんけど、ロードムービーってアメリカとかオーストラリアの真ん中らへんをブイブイ走らせてるイメージだったからな。

単に私が今まで観てこなかったから知らんかっただけかもしらんけど、ベイビーブローカーでロードムービーに目覚め始めそう。

言い忘れそうだから先に言うと、ベイビー・ブローカー、めっちゃ良かったです。
共感を得るためにレビューを観たら、期待しすぎていた人たちの感想が多くて あれ、そんなもんなのかと思ったけど、個人的にはとても突き刺さりました。

ちょっとした間延び感?みたいのを感じる人たちが一定数いたみたいだが、あんまりエンタメエンタメした起承転結ストーリーが私はお好みではないので、とても良かった。
話の展開自体はフィクションフィクションしているかもしれないけど、話のリアルさよりも感情のリアルさを求めてしまうので、そのへん一人ひとりがちゃんと人間人間していて良かったなあ。いやほんとに、この人の役って人間じゃなくてキャラクターだよなっていうのが(芝居の上手い下手ではなく)ひとりでもいるといくら素敵ストーリーでもちょっと冷めちゃうからね。

是枝さんが有名なことは重々承知していたし万引き家族もずっと見よう見ようと思って機会を逃し続けてきたので、これを機にちゃんとはまっていこうかな。

去年あたりからちゃんと見始めた坂元裕二さんといい、家族、特に恵まれていなかったと思われがちな子どもたちの実情、どうしても法律に縛られてしまうよね、こういう生き方があってもいいよねと提示してくれる作品には大いに価値があると思っている。社会問題を扱ってるけど重くて深刻なだけじゃなく、ちゃんとコミカルな作品にしてくれるところもこの人たちの力量が見て取れる。

浅はかながらこういう分野を専攻してきた人間の一人としては、非常に興味を持って観てしまうし、考えさせられるんだなあ。

唐突な告白だけど、人間が好きです。
人間が好きなんですよ。

ベイビー・ブローカーを観た人たちが名シーンの一つとして挙げるであろう「生まれてくれてありがとう」(ちゃんとした言い回しは忘れちゃったけど)のシーン。

あれ、ソヨンが一人ひとりに掛ける生まれてくれてありがとう−里親の引き取り手がいないヘジン、結局母親が迎えに来なかったドンス、借金取りに追われたり離婚されたりなんだかよく分かんないサンちゃん、売春相手と、相手を殺してしまったソヨンの間に生まれたウソン。

それぞれ生まれてくれてありがとうなんだけど、ヘジンがソヨンに言い返す「生まれてくれてありがとう」。
に、一番の思いが集約されていると思っている。

親に捨てられ、売春で生き、売春相手に子供を孕み、子どもを奪われそうになった末に殺人を犯したソヨン。
母親失格。人間失格。自分からも、おそらく世間からもそういうレッテルを貼られる。

そういう人たちに、自分らしく生きる資格はないのかね?幸せになる資格はないのかね?

「生まれてこないほうがよかった」と思うのかね?

へジンくんがまたいい役なのよね…サンちゃんと一緒に賞もらうべきだったよこの子……

へジンくんが無邪気にソヨンに「養子にしてよ」っていうのも、親を欲しい気持ちを表しているだけじゃなくて、「人殺し」だとか「子捨て親」とかいうレッテルを貼る世間と、ただ目の前の人間をありのままに見ているへジンくんとの対比が見える。

観覧車のシーンは泣いたよね。

気持ちだけではどうにもならない。
結局ソヨンは殺人罪で捕まるし、もしそうじゃなくても人を殺した事実は無くならない。

願望だけでは家族にはなれない。みんなが幸せになる道筋が開けようとしていたのに、全員の叶えたい未来は一致しているのにもかかわらず、現実はそうはならない。事実、他人同士が、どんなに気持ちで結びついていたとしても、家族になるのには厳しい制約がある。

坂元裕二さんの「Mother」を思い出した。
教師が被虐待児を誘拐するやつ。

観ている側としてはこのまま家族になれたらきっと幸せなのに、と思うのだが、本当に、法律というものは血のつながりをとてつもなく重要視するし(例え親がどんな親であっても)、里親になるのも厳しい条件がある。

アメリカと違って日本の法律は、実親の権力が強い。
児相でもそんなに簡単に親から子どもを引き離せない。

最近『流浪の月』といい『死刑に至る病』といい、児童虐待絡みフィクションを立て続けに読んだ。

確か『死刑に至る病』のほうに書いてあったんだけど、通常子どもは特別な存在になりたがるけど、親のいない子は限りなく「普通」になることを望む。みたいな台詞があった。

へジンくんの話に戻るけど、へジンくんは遊園地の観覧車で気持ち悪くなってしまい、道中の洗車ではしゃぐ。ラストあたりのシーンでも「洗車に行きたい」と話す。

(この洗車のシーンもまたいいのよね、、)

「遊園地=特別」「洗車=普通」とすると、へジンくんはいわゆる「普通の家族」を求めているのかな、と推測してしまった。(立て続けだったので無駄に結びつけてしまっただけかもしれないが)

大学時代、2年弱くらい児童養護施設のボランティアに行ってたんだけど、そこにいた子たちの顔を何度も思い出してしまった。
実親だってさあ、本当に子どもを預けて忘れちゃう人も中にはいるのかもしれないけど、特に自分で産んだ母親なんてさあ、覚えちゃってるんだよな。

だって産んだんだぜ?
中絶もせず、産んだ直後に殺してしまうでもなく、赤ちゃんとして存在させた。
産むのって大変だぜ。それでも産んだってことは、少なからず生みたい気持ちはあったんじゃないのか。

大学を卒業してから、施設にメールしてみようかなとか、コロナ大丈夫かなとか、私のこと覚えてるんかなとか、なんか好きだったものとか送ろうかなとか色々逡巡して、いやでもボランティアなんかいっぱいいるし、もう何年か経っちゃってるから今更感あるし、施設の人に「いつまでも執着してこわ〜」とか思われたらやだしとか思って結局何もできず…

(私が担当してた子は車とゲームが大好きだったねん。そんで絵もうまくてクラスで選ばれてたり。優しすぎて自分のおやつを取っておいて私に用意してくれてたり…色々と可能性を秘めてる子だったからもっとなんかできたらよかったなあと思ってしまうんだけど、一介の大学生ボランティアがしゃしゃり出ていいのかと思っちゃうし)

何度か施設のブログを覗いたんだけど、ある時誕生日の子がいて、車が大好きな子だから車の形のランチプレート?みたいなやつを用意したらすごい喜んでくれた!みたいなことが書いてあって、これはあの子やないか!と確信してしまった。(もちろん個人情報だから子どもたちの顔とか名前は出されていないけど)

なんだか変わらずいてくれているみたいで、いい人たちに囲まれているようで、安堵。

それでもボランティアの人間でさえこんな色々考えてしまうのに、親なんて、なかなか連絡できないよね。
子供がちっちゃかったら当然覚えていないだろうし、自分を捨てた親なんて恨んでいるだろうし、ちゃんとした大人たちに育てられているのなら、そのまま健全に育てられたほうが子どもの幸せだろうと思ってしまうよね。

なんだろうか。

まだ実親最強説みたいなほうが多いけど、もちろん子どもを育てる能力のないまま親になってしまう人たちなんかいるし、実の親子とて相性の合う合わないがあるのなんか当然だし、でもそれでも100%親が育てるのが正しいんかな。

子どもにとって何が一番いいかを考えるべきなんだろうけど、子どもに選択させるには荷が重すぎる部分もあるし、子どもを育てる責任は親にあるけど、親だけに責任を求めるのも無責任な社会だなあとも思うし。

施設育ちだから、片親だから、離婚したからって「可哀想」とかいうレッテルもどうかと思うし。

大学を卒業して久しいけど未だにこんなことをうじうじ考えてしまうよ。

こういう、映画とか作品を観て、やっぱそうだよなあと思う人もいれば、今まで考えてこなかったけど胸を打つ人もいて、反対に嫌悪感を感じる人も、何も感じない人もそもそも観ない人もいるわけで。

でもそれはそれでいいと思っていて。

皆が皆、同じストーリーに同じように心を打たれ、同じ問題意識を持ってしまったりなんかしたら、それこそこういう表現が国民の意思を操作するプロパガンダのようなものになってしまうわけで。

ただ少なからずこういう作品は社会に影響を与えるわけで、それは直接「こういう子どもたちのこと分かってあげてください!」「赤ちゃんを捨てざるを得ない人たちが世の中にいるんです!」と声高に叫ぶよりも(もちろんそういう行為も必要だけど)、深く人間の心を突くんじゃないかと思うのです。

ニュースでは犯罪の部分しか流れないものが、物語によって誰かの背景を推測することができるようになる。
切り取られた部分だけが拡散されがちな世の中には、そういう心が必要だと思っているのだよ。

ザッツオール。

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