時間が解決するもの。凝固させるもの。

そりゃ大体の出来事は時間の経過とともに記憶が薄くなって消えていくわけだしそれは愛も憎悪も等しくそうだと思うのだが、逆に時間の経過とともに固まっていくものもあって、なぜ固まっていくかというとその経験自体はその場限りだけど自分の中では反芻されているからで、だから別に、時間は全てを解決してくれるわけではない。

それでも反芻されるのは、自分が解決されることを本当は望んでないからかもしれない。

楽しかった記憶の繰り返しだって、それがもう過去のものであるということを哀しむための材料になっているのかもしれないし。

私生活足りてない(ずっと)

なんか最近色々と思うところがあったけど全然書けずにいた。

いつもだけど。

もう何を考えてたんだろ。さいきん。
思い出しながら書くので長くなりそうです。

けっこう今までは、あれもこれもだった欲求を押さえつけようと思ってたけど、最近は全部めんどくさくなって日常に満足してしまう。
今日も20時くらいに仕事を終えて、「仕事終わったらスタバに行ってnote書こ!(その前日も書こうと思ってたのに2時までだらだらして寝ちゃった)」って思ってたのに、いざ仕事が終わると「お腹がすいたからごはんをたべます」「おさらを洗います」「はみがきをします」などとふだんめんどくさがって全然しないのに(そんなことはない)、スタバへ行くための準備のめんどくささをひきのばすために日常のめんどくさいことをだらだらとやって車で5分のスタバに1時間半後にやっと着きました。

なんか結果的にはちゃんとめんどくさいことをやってるのでいいのだけど。

なんか、元気なときは元気すぎるあまりに日常業務をこなせないらしい。

ごはんつくったり、お皿を洗ったり、歯を磨いたりするときに、自分が元気すぎるとこの日常業務があんまりにも退屈すぎてできない。

フリーダムすぎる(だがやることが多い)在宅勤務なので、気づいたら残業している。
気づいたら外が朝から夜になっていて、仕事を終えてごはんを食べようとしてるうちに深夜になっていて、ぼーっとしてたら寝る時間を逃している。ちゃんと寝たい。ほんとうに。

なんかTwitterとかThreadsとかでなぜかめちゃくちゃ不倫したされたアカウントがボコボコ出てくるのだが、そういうのとか芸能人不倫夜遊びとかのニュースとか見るたびに「不倫ダメ絶対!」とか思うよりも先に「忙しいだろうにどこにそんな時間あるんだ」って感心してしまう。
不倫してる人って、仕事も行って、家庭もあって、不倫相手もいて、それぞれとアポ取り合ってスケジュール調整して隠すための細工もして、同じ1日を過ごしてるはずなのにどうやってるんだ。

私は人間関係のキャパがめちゃくちゃ狭いので、同時期に連絡を取り合う人間が5人以上とかになるともう返信が追いつかなくなってしまう。(エネルギーを使い切ってしまう)

1人の時にやりたいことも多くて、ただ人といると1人の時に沸き起こる「あれもこれも」が水面下にいくので落ち着いて生きられるのだが、しばらく人と過ごしてから1人になると「あれもこれも」が「あれもあれもこれもこれも」になっていて、そんな状態になるともう1人でいるときに眠れなくなってしまって「あれもあれもこれもこれも」がもとは純粋な欲求だったはずなのにストレッサーになってきて、結局グダグダして(グダグダというのは私の中では1人で踊り狂うこと)終わってしまう。

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読みました。

さて、今年1冊目の読了本です。
「東京都同情塔」。

本も読めてないんですよ。
本を読んでいたら1日がなくなっちゃうから読めなくなってきて。

心に余裕がない。

この本はチラッとスマホを見たときに芥川賞直木賞の速報が目について、めちゃくちゃ面白そうだったので発表日に「買う」となって、その日も仕事を20時くらいに終えて、その日もしばらくウダウダしてから徒歩で近所のツ○ヤに行きました。

売ってませんでした。

えー、え、え、本屋さんって芥川賞に無頓着なの??って思って虚無の顔で家に帰りました。

またしばらくウダウダして、「近所のツ○ヤはちっちゃいから売ってないんだな。車で行こう」と思って2件目のツ○ヤに行ったけどそこにも置いてなくて、置いてなくてというか芥川賞直木賞があった気配すらなくて(気配くらいはあってもいいよね、本屋なんだから)、町中の本屋が閉まりそうな時間帯に3軒目のちょいマイナーな本屋さんに行ってそこでは入口に「速報!芥川賞直木賞決まりました!」みたいなポップが出ていて「あ、あ、夢じゃなかった」と嬉しくなったが入口のラインナップに「東京都同情塔」がなくて、文芸雑誌のほうも一応チェックして、「女性作家」のコーナーの作家タブを一人ひとりチェックして(いなかった。なんでだよ、、)1時間くらいウロウロした後に検索機があったことに気づいて検索したら品切れ中でした。

フェー。

これだから田舎は。

田舎は、というか、え、そんなもんなのかな。そんなもん?
芥川賞候補になった時点で入荷とかしておかないのかな。候補くらいじゃ売れないからだろうか…恐ろしい時代だ。
(結局新宿の紀伊國屋本店で買いました。いっぱい売ってました。)

そんで無駄に労力を費やしてしまって、サンクコスト効果も働いてしまったと思うが本はとても面白かったです。

九段さんの本ずっと読みたいと思ってたんだが、なんだかんだこの本が初になりました。
面白かったが、この本に関して言えば現代の要素がふんだんに詰まった芥川賞向け純文学という感じもしたので、他のもっと感覚任せの作品があったら読みたい。

内容に関して、生成AIに対する皮肉だとか、アンチテーゼだとかみたいなレビューも見かけたけど、どちらかというとAIに否定的というより人間への肯定に取れます。

「AI導入され私は能無しに」…勉強する意味を失った芸術大学生の苦悩 崖で見つけた2人の女性の告白【東尋坊の現場から】 | 社会 | 福井のニュース | 福井新聞ONLINE 福井県坂井市にある観光名所・東尋坊の岩場を毎日のように自殺企図者がいないかパトロールしていますが、人工知能と言われているA www.fukuishimbun.co.jp


去年この記事を読んでかなしくなった。というより驚いた。
生成AIの文章だったりイラストだったりが、本当に人間の文学や絵画の存在価値を見失わせるのか。

そんなわけない、と思ってた。

そもそも芸術というのは、自己表現であって、コミュニケーションであって、言葉とか絵とかはそのための手段でしかない、と思っている。

ChatGPTはたまに使いますが、やり取りしてるとだんだんむかついてくる。
他人の言葉を借りるだけで何の意見もなくペラペラ偉そうに喋るやつみたいだな(お口が悪いですね)と思ってしまって対話を辞めてしまう。

そんな奴に自分の存在価値が脅かされると思うか?

別に便利だとは思う。自己表現として使わない限りは。
(自己表現として使おうとするとあまりにも主観が排除されていて何の魅力も感じられない。まだこれからなのかもしれないけど。あまりにも中身がなくて表面的な、目の上を滑るだけの表現にしか感じられない。芸術を自己表現と思っているので、自己のない人工知能に対して「芸術」を求めること自体が間違ってるようにも感じる。AIが生み出す文とかイラストは芸術じゃなくて技術だと思っている)

人間は一人ひとりその中身があるわけで、それは一人ひとりにしかないわけで、そこに価値を感じられないなら、技術だけに焦点を当てるならすぐに取って食われるんだと思うけれども。

それは自分の視点だけの問題なだけじゃなくて、社会の視点によっても左右されるから、それでけっこう社会の視点というのは外側の部分(技術のほう)に主に向いてしまうから、こういうニュースみたいなことが起きてしまうんですかね。つらい。

「普通」。
この前も書いたけど、やっぱり「普通」を考えてしまう。

私はちゃんと他者から「普通」と思われているのか。
それぞれのコミュニティでどのくらい自分を「自分」として出して大丈夫か。

自分の「普通じゃない」部分はどのくらいポジティブに受け入れてもらえるのか。

オリジナリティが求められる場面なんかいっぱいあるだろうから自分の「普通じゃない」部分はもっと自分が受け入れていくべき、と思うのに、何か世間とずれを感じる部分に関して劣等感みたいなものを感じてしまう。みたいなもの、というかもうそれです。

「普通」になりたいわけじゃないけど、もっと「普通」の部分が多かったら楽なんだろうなとは思う。

「普通」というのは大体「多数派」でいるということです。
多数派の中にいるときというのは、多くの人と認識が一致しているということで、認識が一致しているというのは、同じ多数派にいる人たちに対してはその一致した認識に対して疑問が湧かないということです。(そもそも自分が多数派側にいるときは自分が多数派側にいることすら意識できないことの方が多いと思っている。だから少数派をみたときに「あ、ちょっと変な人がいる」と思うにとどまってしまう)

これはもう、しょうがないことなんだけれども、多数派でいるときには多数派でいることの理由はほとんど聞かれないのに、少数派でいるときはほとんど常に少数派でいることの理由を求められる。

少数派が多数派に多数派でいることの理由を聞くよりも、多数派が少数派に聞くことの方が圧倒的に多い(なぜかというと単純に人数が多いから)ので、これはだれも悪くなく、別に少数派でいることを否定されているわけでもないのだが、ただ単に認識が一致しない人が多い、という理由で少数派にいることには疲弊が伴う。

「だって普通はこう」だろうとか言われると、その瞬間に対話を諦めてしまう。

大体の場合「普通はこう」というのが自分の中に前提条件としてあって、でも「そうじゃないんじゃないか」と思ったからその違和感を発信しているはずなのに「普通はこうなんだからそれは違う」とか言われちゃったらもう、あれやん。終了やんけ。
最終的に「普通」を盾にしている人とは議論の余地がない。
どこまで行っても「普通はこうだからこう」という結論にしか執着しないから。

でもその「普通はこう」という共通認識みたいなものがないとなかなか議論が成立しないことも分かっているのですよ。
だって大抵の物事には正解がないんだから。
正解のないものに対しては「こちらがスタンダードコースですよ」みたいな道標がないとみんな迷子になってしまう。
ただたまにスタンダードコースを「絶対的なコレクトコース」だと思ってる人がいるから厄介なのです。

あえて短絡的な断定。あえて大きい主語。

私は文章を書くときめんどくさい人間になっていることは承知の上で、だってそんなに物事は単純に結論づけられないし、何か意見を言うにはまず相手と前提となる認識を一致させないとだし、事実は事実で意見は意見だから簡単に「これはこうです」とも言えないし、場合分けも例外もあるし、何でもいいんですがとにかく自分の意見を伝えるというのはとっても難しいことなのです。

今までは人と話すときにもそれを意識してしまってうまく会話できないことが多くて、でも会話のときにそんなめんどくさいことを話していられるわけもなく自分の意見というのは自分の中の深い部分にしまっておいていたわけなのだが、最近はあえて簡単に断定をしたり主語をでかくしたりしている。
なぜかというと、楽だからです。 
コミュニケーションがとても楽。

そういうことをしないと、じゃあ例えば「カレー好きですか?」と聞かれたときに

(まずいカレーもあるだろうから100%好きとは言えないなあ)
(そもそもどこからどこまでを「カレー」と定義するのか)

みたいないらんことを考えてしまって(同じことを5年前にラーメンで書いた気がする)、

「カレー好きですか?」という極めて簡単な質問にも答えられなくなってしまうので、

「(ざっくりとした)カレーが(ざっくりと)好き」という認識で会話をしている。

この「ざっくり」がなかなかになくしてはいけない「ざっくり」なのである。

安直な発言はちゃんと「安直な発言」として捉えて、その中に場合分けとか例外があることをちゃんと自分の中では意識しておかないといけない。(安直な発言を自分の意見としてしまうと多くの人を傷つけることになってしまうから)

いまだに大人たちがしている日常会話が、本気の自分の意見なのか、会話をスムーズにするための簡単な言葉なのかの判別がつかなかったりする。

自分の意見を会話の中でどこまで深くしていいのか迷ってしまう。
(深くなるほど結論が出なくなるものだと思ってるので、別に共有したとて、と思ってしまうから。でも会話の中だけで出た自分の発言がそれは思考の浅瀬の部分ですよということもちゃんと提示しておきたくて、相手も深い部分も持っているならちゃんと深いところを共有して確かめ合いたいという欲求もある)

だからここでうだうだと書いているんでしょうけどね。ふぬ。

プレーリーハタネズミ

恋人への愛を維持できなくなるときに脳で何が起きているのか? – ナゾロジー 映画の『幸せの黄色いハンカチ』の元ネタとしても知られる『幸せの黄色いリボン』という楽曲は、徴兵されてベトナム戦争に出征した nazology.net

この前読んだプレーリーハタネズミの記事です。
一夫一妻制って文化的なものだと思ってたけど、動物の種類によっても決まってるのね。

恋愛って不思議ですね。

再会した相手に対してはドーパミンが出る、みたいなことが書いてあったけど、その相手ももともとは初対面だったわけで、ドーパミンが出るに至った相手と他の相手との違いはなんだろうかと思ってしまう。
(別の記事にオスのプレーリーハタネズミはつがいになるまで個々のメスを見分けることができないみたいなこと書いてあった。ほんまか?)

ハタネズミ、妻を得て初めてメスの違いを認識 プレーリーハタネズミのオスは、独身の間はメスを見分けられないが、つがいになって初めてメスを見分けられる能力をもつことが、米 natgeo.nikkeibp.co.jp

これでした。
不特定多数のメスを任意に選んでお営みをした瞬間に「オレの妻はこいつです」となるの?すごいね?

男女の友情は成立するか問題はいつになっても結論が出ないままですが、同性間では友情も恋愛感情もあり得るのに異性間は友情が成立しないなんてことがあるのか?
同性愛者だって同性の友達がいるだろうし、恋愛対象になる性に友情が成立しないならバイセクシャルとかパンセクシャルは友情を持たないことになるの?(そんなわけない)

あんまり違いを決定づけるような研究も見つからず、この辺に関しては大学生の頃から割とずっと気になっている。

恋愛感情があったらドーパミンは放出されているのだろうけど、それは別に友人間でもそうじゃないかと思っている。
知らん人と会う時と友達と会う時では明らかに自分の感情は異なりますし。

それはそれとしてプレーリーハタネズミの話をすると、特定の相手と再会したときにドーパミンが出て一夫一妻の結びつきを与えるらしいが、じゃあそれがなくなるのはどんな時?というとやはり時間の経過だそうです。

特定の相手と再会できない時(死別、離別等)にいつまでも結びつきを持っていたらそれ以上子孫を残せず生きものとしての脅威になるから、的なことらしいです。まあそりゃそう。

時間の解決に頼るしかないのか。

全ての生きものに死ぬ可能性がある限り、特定の対象にのみ特別の愛情を持ち続けることは子孫繁栄の脅威になる故に愛情を忘れることが必要になる。

冒頭の話に戻るけど、繰り返し思い出して忘れない感情もあって、でもそれは大体ネガティブで、というのも生きものは生きていくために脅威から学んでそれを回避しないといけないからそれはそれで生きものとしての機能が正常に働いている。

うまくいっているかどうかは別として。

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