概念の境界線の隙間。

前回のやつで話題に出した『ヒトはなぜ自殺するのか』にも書いてあったけど、ヒトは自殺を決意する時、白黒思考(二分法的思考)に陥っている(傾向にある、と言ったほうがいいのかな)。

生きるべきか死ぬべきかである。
トゥービーオアノットトゥービーである。
ザットイズザクエスチョンである。
(シェイクスピアが意図したのが生か死かの問いだったかどうかはここでは置いといて)

生も死も、不思議な概念である。

生という言葉と死という言葉は紛れもなく対義語だけど、その概念ははたして対になってるのかなあと思うのである。

「生きるべきか死ぬべきか」という問いを立てると生と死 が 1:1 であるかのように見えるけど、その選択肢を考える時、死が1だとしたら、生は∞を持つ。

となると「生きるべきか死ぬべきか」という問いを立てること自体が間違ってるように思えるけど、行き詰まると視野が狭まりに狭まっていって「生きる」の選択肢が「生きる」というそれ一択になるわけなんかな。

ただ、本の中で引用されていた言葉の中に、自殺というのは火に覆われているビルから飛び降りるような感覚であって、ビルの下からそこにいるように説得する人がその人の状況を理解できていないのと同じようとあったように、もうそこに「生きる」という選択肢はなくて、そこにいたら殺されてしまうような(敵にか、社会にか、自分にか、何にかは分からないけど)状況にいて、そのまま火に覆われるのを待つように「殺される」のか、それを待たずして自分から「死ぬ」のか、そういう2択になってるのかな。

生死の概念を考えるときに面白いのが、生と死の境界線がとてもとてもはっきりしているという点である。
生物学的に言ったら、脳死がどうの心臓死がどうのみたいな話になるので実際には微妙なところだが。

にも関わらず、私たちにとって生きていることと死んでいることには明確な境界線がある。

私はけっこう、概念と概念の境界線を信用しない人間である。
色と色がはっきりと区別されたものではないように、あらゆる概念は、思っているよりももっともっとぼんやりしていて、グラデーションで、動いていると思っている。

円滑なコミュニケーションだかなんだかのために概念と概念の間に境界線を設けて、物事を抽象的に捉えるという技術を獲得していったのかな、この辺の経緯はあんまり分からんが、その結果、実際には無い境界線という幻覚がくっきりと見えるようになってしまった。

正直言って、あらゆる概念において私はこの境界線というものが嫌いである。
境界線と境界線の間には多くの重要なものが存在しているのに、それらを見えないようにしてしまっている。

境界線の隙間をないものとするような言葉とか考えに遭遇するとき、いつもサルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉を思い出す。

今調べてみたらサルトルの言葉の意図が私の思うところとだいぶ違っていてショック。
ちゃんと読まずに言葉一つだけ覚えてるからこうなるんだね。
なんかうまく言い表す言葉がないんかな。

前回、私の言葉を読んで少しでも共感をしてもらえたら嬉しいよみたいなことを言ったけど、すんごい分かりにくい文章になっているのは承知してるので、このダラダラとしててボヤボヤとした文字の羅列をちゃんと読んでくれようとしてる人がいたらとても申し訳ない。
分かりやすく書こうとしたらしたで、その結果自分の感情と切り離されていったら私はこの言葉の羅列に何の意味も見出せなくなってしまうので、グダグダになってしまうのを許してほしい。

そんで、何が言いたいかというと、そういうあらゆるぼんやりした概念に対して、人間にとって生きていることと死んでいることは明確に違う。

当たり前じゃないかというところなんだけど。

当たり前なんだけど。

当たり前なんだけどさ。

小学生くらいのときに、どっかの博物館で、まだヒトがホモ・サピエンスになっていないときだと思うけど、死者を埋葬して、そこに花をたむけている様子のレプリカを見たのを覚えている。
(今ちょっと調べたらネアンデルタール人がヒットしたので、多分私が見たのはネアンデルタール人)

人間だけじゃなくて、犬とか、猿とかゾウとか、動物たちも死や別れを悲しむ様子を見せる時があるけど、実際に死という概念を理解しているかというと、理解しているかどうかを人間が理解することが難しいのでよく分からない。

ただ埋葬して死者を偲ぶというのはどうやらヒトに特有の儀式らしい。

数回会ったきりとか、何となく疎遠になって永遠に会わない人というのはけっこういるだろうけど、生きているままで会わないのと、死としての別れは、自分の状況としては変わらないはずなのに、全然違う。

寝たきりで意識もないけど生きている状態と、死んでまもない状態は、違いでいったら心臓が動いているのと呼吸をしているのとくらいだけど、全然違う。

それはグラデーションではなく、死に足を踏み入れた瞬間にズドンである。

ただ、他者から見たら「生きている」の状態でも、本人からしたら「死んだまま生きている」状態もあるので、生きていることと死んでいることの境目がはっきりしていても「生きてさえいればいい」というものでもなくて、なんだろ、人間が生きているという感覚とともに生きていられるように。

余談。

これを書いている途中に小林賢太郎さんの更新されていたnote記事を読んだ。
「できること表」を書くというもの。


できることでやるものはやればいい。
できないことでやりたいものもやればいい。

できないことでやらなくていいものを考えるのはけっこう大事である。
別にやらなくてもいいのに、皆やってるからとか、これをできるようになるのは当然だから、みたいな理由でやるものは、大いに時間を無駄にする。
まあやっておいて損なものはないとは思うけど。

できることでやらないもの。これが曲者なのである。
小林さんが何をどう意図しているかは分からないけど、私はこれにはけっこう苦戦している。

別にできるからといってそれを使わなくてもいいんだけど、というか使わなければということに振り回されて目的を見失ってしまうこともあるだろうけど、なんかもったいないと思ったり、そういうことを言われたり、自分のできることからやることを選び取るというのは難しい作業なのですな。

それに、やたらめったら振り回すと、できることというのは、倫理を失った科学技術みたいに他者を痛めつける武器になってしまったりする。

自分のできることが増えれば増えるほど、その使い道をよくよく考えていかなければいけないというのは生きている間の永遠の課題ですな。

それでは。
























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