絶対に現代社会よりハメハメハ大王のほうが理にかなっている。

すん。

さむいです。

さむいのに労働している。
おかしい。

そもそもさあ、冬って日照時間短いやんけ。
なのになんで労働時間は変わらないんや。

雨の日だって、低気圧は生き物の天敵。
結局生き物として生きている以上、気候にただならぬ影響を受けているねん。

影響を受けてしまっている以上、それに合わせた生活をするべきでないんか?

なんで私たちは変化しているのに、社会システムはこんなにも無機的なんか?
人間が人間の為に作ったシステムなのに、なぜシステムを人間に合わせて変化させるのではなく、人間側が無理してシステム側に合わせてるんや?そりゃ鬱も育つわけであるさ。

まあまあ、社会という巨大モンスターに対して、一個人はあまりにも無力でありますからね。
大王にでもならん限り、ハメハメハするのは難しい。

とはいえ。飲まれてはいけないのだよ。

私たちは生きるために働いてるわけであって、働く為に生きてるわけじゃないのだからよ。

書きたいことが溜まってるよ〜
でも本当に、忘れちゃうよ。

ちゃんと暇を作りたいね。本当に。
生活にばっかり気が向いてると、思い出すべきことも思い出せなくなっちゃう。

とりあえず最近のことを、書いていきますよ。

ᕕ( ᐛ )ᕗ時間が存在しないというやつについて

一昨年くらいに買って読んで面白かったカルロ・ロヴェッリさんの「時間は存在しない」という本を読み返しています。

(埋め込みでかくね?)

面白い。

時間が絶対的なものじゃなくてただの概念概念した概念でしかないんだあと思う。

理解できないのに。

そもそも物理の専門的っぽい前提がないと引用されてるものが分からんし、たぶん時間という存在が崩壊するまでの思考過程を辿れるほど私のニューロンは伸びてないよなと感じている。

けどこの本は面白い。

最近読み直したところでは、時間の矢が一方通行であるかという点で(時間は過去から未来にしか進まず、未来から過去には戻れないのか)、エントロピーが一方通行に増大し続ける?から、つまり秩序立っている側からよりカオスに変化していくため時間が一方通行であるように見えている、という。じゃあなぜ過去の方がより秩序立っているのかというと、私たちが自然を近似的に見ることによって秩序立っているように感じている、のだと。

具体レベルで自然を捉えたら、時間の流れは「消える」と。

その辺が私のふわっと理解した部分だけど。

ちょっと待て、と。

近似的(≒抽象的?)なものの見方って、人間の思考の特徴じゃないんだっけ。

本の引用を借りれば、トランプのカードを「赤いやつと黒いやつ」、「同じ数字」とかいうマクロな、ぼんやりした見方。この見方のせいで時間の矢が一方通行に見えているという。

そんなら、人間以外の生き物が抽象的に物事を見ていないとしたら、彼らには「時間の矢」が見えていないということ?過去と未来を区別していないということ?

前にもちょっとこの本について書いてたわ。

犬とか猫とか、どんな時間の見方をしているんだろうか。

ほんとに毎度思うけど、時間という概念が時間という概念として存在する人間社会に生まれついちゃった故、その感覚を壊すことがなかなか難しいのですよ。難しいよね。ね。

あ、でもそもそもあれなのか?時間という概念そのものが抽象的な概念だから、時間の矢が存在するとかしないとか、そういう問題じゃないのか?でもじゃあ例えば因果関係とか、過去の原因があって未来の結果があるみたいな、そういう事象もなくなるということ?

私はめっちゃ人間なので、あまりにも思考が時間という概念と結びつきすぎて、それ抜きにして考えることができません。生きてる間にもうちょっとだけ伸びてくれ私のニューロン。

ᕕ( ᐛ )ᕗ小説二作目の進捗が死んでいます

まあ私の今年書き上がった処女作さんは、20000字ちょいのくせに書こうと思い立ってからおおよそ4年の歳月が流れていたわけで、それに比べたら今年の9月に書き始めて10000字ちょいにはなってるので(それこそカオス状態だけど)成長といえば成長。

でもなんとなく、今年終わるまでに初稿上げたいとは思っていたねん。全然終わらんねん。
本当に、広がるだけ広がっていって、収束させるのができない人間なんですよ。まとまらないねん。形にならんのやねん。もう液体やねん。液体。液体として完成させるにも、何か形のある容器に入れなきゃだめなんですわ。

適当な比喩は置いておいて。

そもそも今書いてるやつは、処女作さんがだいぶ自分を抉るタイプの文章だったから、処女作さんを書いてる途中でなんか楽な心持ちで書きたいと思って書き始めたやつなんですよ。
だからだいぶ前回より書きやすい。

書きやすい分、嘘も生まれやすくなってんなあと感じている。

処女作さんは、フィクションではあるけどだいぶ自分自分したところに踏み込んだから、その分リアルな感じで書けるは書ける。今回のは、割と他人になりすまして書いてる節があるから、感情もフィクションになりやすい。小説だから全部フィクションはフィクションなんだけど、感情をフィクションにはしたくないわけで。そこを嘘にしちゃったら書いてる意味がなくなっちゃうなあと思って。まあそれは、このブログもnoteも全部そうなんだけど。

でも最近、今泉監督の作品にはまっていて。
今泉さんのも結構リアルな感情なんだけど、それが現実に即しているかというと、流石にリアルでは美しすぎるなとも感じる。

それが悪い意味じゃなくて、それこそがフィクションの真髄なんじゃないかと。
現実であってほしいけど、それは流石にあり得ないから、こうであればいいと願っている自分の頭の中の現実。誰かの「こうであればいいよね」と繋がる創作。

うーん。それもまたいいのよね。

迷っています。ここにきて。

別にそんな大層なもんじゃないけどさ。
自分の時間と神経を使って書く以上、少なくとも自分にとってだけは大きな価値があるのだよ。

とりあえず頭溶かして書いていきますよ。すん。

ᕕ( ᐛ )ᕗ毒を吐かないためには、毒のある環境にいてはいけない

愚痴ですよ。やだね。

優しい人でいたいですよ。
でもやっぱり、ドブ水を飲んだら内臓はドブで濁りますし、針で刺されたら体から針が生えるんですよ。つらい。

何がとは言わんが(もう何度か言っちゃってるので)、やっぱりゼロにはならんのだよ。忘れた頃になって、もう大丈夫かなと思う頃になって、思い返したようにサクッと刺されることがあるのだよ。それはもうだから、環境を変えない限りずっとそうなんだろうな。

しんどいと言っていいかな。

何より、そういうギスギスとした感情になることによって、他の無関係な場所で自分のギスギスさを投げてしまうことが、いやなんですよ。本当に、切実に、優しい人でありたい。

他人を傷つけたいとは思っていないのだよ。そんな人はいないかもしれないけど。

でも防衛本能はあるからさ。刺された分だけ硬く尖っていく心でありますからさ。
愚痴を吐いたって別に毒がなくなるわけじゃなくて、自分の吐いた毒にまた自分が痛めつけられて悲しくなるだけだからさ。

言うたって、別にそんなに自分が傷ついてるなんて思ってないけどさ。
とにかく自分の心が狭くて尖ってて、他人を傷つけてしまっているかもしれないという自覚をすることが怖いのですよ。

そんなのはね、しょうがない話なんだけどね。自分が生きている限り、生きているというだけでも、誰かや何かは傷つけている。言葉という武器を使ったら余計そうなのであって。

前に進むときは何がしかを踏み潰しているし、自分が得た蜜は、自分がいなけりゃ他の人が得られた蜜かもしれない。

とにかく、自分の心が弱いというのが要因であるわけで、メンタルがほろほろクッキーなわけで、他人を傷つけたくないというのも、他人を傷つけることによって自分が悪い人間になっちゃうのがいやなんだろうなあ。

心をもっとやわらかくしたいんですよ。

しんどいくらい忘れっぽい人間なので、サクッとなってもちょっと経ったらすぐ忘れるから(だからこの状態から逸脱しないのかもしれないけど)まだいけるやん、って思うんだけど、グサッとなったときに、前回までのぶんがあれ、なくなってないや、蓄積されてるやって気づくんであります。

人生を通して、胃に砂塵が少しずつ、溜まっていく感覚ですよ。
それの無くし方が分からない。

元気なんだけどね。
ふだんは。

優しい人たちが周りにいっぱいいるわけで。
そういう人たちの一部でありたいと思うんですよ。

そんなこんなで、今年ももうちょいだけど、楽しみましょうね。ちゃおず。

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